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2016.02.16 【報告】
第507回関西文学散歩
~谷崎夫妻にみる愛のかたち、結婚のかたち~
2016年2月14日(日)終了 <天気:曇りのち晴れ 参加人数40名>
春琴堂
法然院にて

 出がけに用意した長傘は、どうやら要らぬらしい。神宮丸太町駅から地上へ上がると、鴨川河原には前夜から降り続いた雨の気配は消え、青空が広がっていた。対岸には頼山陽の「山紫水明処」、その3軒目に旅館「信楽」があった。女将が与謝野晶子の友人で、吉井勇などの歌人や志賀直哉らが利用したという、いわゆる「文人の宿」。明治45年4月に初めて入洛した谷崎潤一郎も、投宿していた長田幹彦を訪ねたようだ。その時の京都の印象が、谷崎にはきっと印象深かったのだろうと講師の橫井先生。そう、1年のうちでもとくに桜に彩られた京都は美しいのだ。生まれた東京の江戸情緒が加速度的に失われていった時代、都市の湿潤感を愛した谷崎には懐かしい気分を満たしてくれる町だったのだ。大正12年、関東大震災をきっかけに関西へ移り、引っ越し魔谷崎の住居の原点が、この鴨川を臨む町だっただろう。

 その4年後の昭和2年3月に、谷崎は芥川龍之介の紹介で、3人目の妻となる根津松子さんと大阪で出会った。たちまち恋をした。夫のいる叶わぬ恋だった。しかし谷崎は〝御寮人様〟と盲目的に松子さんを慕った。その思いは「蘆刈」や「春琴抄」にも昇華され、〝倚松庵〟と名付けた神戸住吉の家で成就した。〝倚松庵主人〟を名乗った家は、阪神間に6軒あったそうだが、その命名は「吾が身こそ関山越えてここにあらめ心は妹によりにしものを」(「万葉集」巻15—3757)の歌のように、松子さんへの思いを込めたものだったのだろうと、横井先生は説明した。

 谷崎は終戦後に京都に入り、「前の潺湲亭(せんかんてい)」「後の潺湲亭」と住まいの理想を求め、法然院を墓所と定めた後、渡辺家の新居の位置について「北は修学院まで、南は南禅寺まで、左京区内の東側に限る」とした。そして、法然院山門下に土地を見つけた時は「鹿ヶ谷の地所にアナタの家を建てることに大賛成です。さうしたら私たちも泊りに行けます。死後もそばにゐられます」と書き送っている。(渡辺たをり「花は桜、魚は鯛」)

「倚松庵の夢」に所収された「寒紅梅」の最後に、松子夫人は「京のたよりにきのうもきょうも風花が舞っているという。法然院の墓石は寂として静まり、枝垂れ桜の咲く日を生きていた日と同じように舞っていることであろう」と結んでいる。その〝寂〟と刻まれた墓石に、私たちは手を合わせた。今年は暖冬、もうすぐ、墓石に垂れる紅枝垂れ桜も咲くだろう。

 

テキスト:谷崎松子『倚松庵の夢』(中公文庫)、谷崎潤一郎『盲目物語』(講談社学術文庫)

コース:神宮丸太町駅-旅館「信楽」跡(遠望)-京都教育文化センター(講演)-春琴堂-神楽岡町-哲学の道(北〜南へ)-渡辺千萬子邸跡-法然院(境内のみ、本堂拝観は外から)-法然院・谷崎墓碑-バス停「錦林車庫前」<解散>

<報告:田添浩一>

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