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2017.10.17 【報告】
第527回関西文学散歩
~美貌の女人と長岡京から平安京遷都への道~
2017年10月8日(日)終了 <天気:晴れ 参加人数66名>
講演風景
西国街道、常夜灯

 今回は、三枝和子著「薬子の京(上・下)」の作品を手掛かりに、旧長岡京近辺を巡る企画である。

 JR向日町駅に集合した一行は、好天に恵まれたこともあって、70名近い参加となった。

 駅前から道を西へ取ると、まず目に付くのが「粟生光明寺道」の道標、しばらく歩いて南へ左折する道の角に「西国街道」の道標があり、大きな常夜灯と共にその存在感を示す。

 少し疲れが出たころ、向日町競輪場につく。日曜日とあって、送迎用の路線バスが頻繁に入ってくるが、こんな所で?と訝っていると、駐車場のすぐ隣に向日町会館があり、その2階大会議室で各自椅子を並べて講演となった。講師は大阪文学振興会事務局長の横井三保先生である。

「薬子(くすこ)は悪役ととらえられてきた」という衝撃的な言葉から横井講師の話ははじまった。『薬子の京』は、京都新聞に連載された後、1995年に単行本として刊行されている。その作品中、薬子は、藤原縄主(なわぬし)との間に長女を産んで10日目に父、藤原種継(たねつぐ)が矢で射殺され、続いてその事件の首謀者の一人として早良親王が憤死するという現実に直面する。藤原式家と南家との政権争奪戦とも言える葛藤の只中だが、上巻では、そんな時代に薬子自身の人格が如何にして鍛えられ、造られてきたのであろうと想像できる。

 横井講師は、レジュメ最終ページの略年表を使って、時代背景を丁寧に解説。嵯峨天皇が即位し都が平安京に遷ると、藤原式家と南家の争いに北家が割り込んできて、薬子の出自である式家の勢力に衰えが見え始める構図になったようだ。平城上皇は、なぜ嵯峨天皇を差し置いて平城京還都の詔を発し二所政治を招いたのか。この辺りに、〝上皇を美貌でたぶらかした悪女〟と伝えられた薬子の謎があるようだが、2000年頃からは、「薬子の変」と呼ばず「平城上皇の変」と呼称が変わっているそうだ。となると、主体性は上皇にあり、「変」の首謀者は上皇で、自殺とされているが薬子が賜った死は、その犠牲になったということかもしれない、と思った。

 

 ≪全文は上記PDFファイルをご覧ください≫

 

テキスト:三枝和子『薬子の京(上・下』(講談社)、『続日本紀(下巻)』・『日本後紀(上巻)』(いずれも講談社学術文庫)

コース:JR「向日町」駅…西国街道・道標…向日町会館 (講演)…長岡京大極殿跡…石塔寺 (伝・藤原種継暗殺現場付近)…西国街道・一文橋…中山修一顕彰碑 (解散)…解散後:JR「長岡京」駅または阪急「長岡天神」駅

<報告:岸田春二>

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