天気:雨ときどき曇 参加人数:33名
高雄山神護寺・槙尾山西明寺・栂尾山高山寺は古来、清滝川のせせらぎの音とともに三尾の名刹として知られる。今回のカルチャーウォーキングは、弘法大師・空海の甥である智泉大徳が開いた槙尾山西明寺を訪れた。梅雨の最中とあって参加者はいつもより少なかった。
その西明寺は、空海に「密教のことは智泉に任す」と言わしめたほどに聡明であった甥の智泉が神護寺別院として創建したのに始まり、そののち神護寺より独立した。智泉大徳(徳の高い清僧)は、その後、陣頭指揮を執っていた高野山建設による疲労からか、三十七才(三十六才説もあり)で高野山で亡くなったが、空海は胸を痛めるほどに慟哭し、自ら亡き弟子智泉が為の切々たる達嚫(だっしん)文~追悼文~を撰し、痛切な哀悼の心を示した。
「哀れなるかな、哀れなるかな、哀なる中の哀れなり。悲しいかな、悲しいかな、悲が中の悲なり。覚の朝には夢虎なく、悟の日には幻象なしといえども、しかれどもなお夢夜の別れ不覚の涙に忍びず。巨壑半渡って片檝たちまちに折れ、大虚未だ凌がざるに一翎たちまちに摧く。哀れなるかな、哀れなるかな、また哀れなるか、悲しいかな、悲しいかな。重ねて悲しいかな」――この追悼文を収載する『性霊集』は、空海が折々に著作した朝廷への願文(申請書)、碑文、歎徳文、書簡などを弟子の真済が写しとり、編纂したものである。
空海は漢詩に秀でており、文章家としても傑出したものを持ち合わせ、きわめて豊かな情緒を兼ねそなえていた人物であることがわかる。自分が期待していた弟子に先立たれることはこの上なくつらいことである。しかしながら、生死変化の理は誰一人のがれられないのである。空海はこの悲しみを真っ向から受け止め涙しているが、一瞬の後に智泉の成仏を心より願い祈り、同時に衆生とともに仏陀の光に導かれ安楽なる仏土に生ぜんことも願っている。智泉との別れにとどまらず、種々の別れや悲しみを思いながら、それらに負けることなく自己の目標の達成に全力を傾けていく姿は流石と思うばかりである。
弘法大師空海のように、この世に生身で存在した人間が、その死後千数百年経てもなお、半神としてあがめられつづける、という現実、そして、空海の場合、それが自然以上の自然さをもつというのは、どういう機微によるものであろう。
≪全文は上記PDFファイルをご覧ください≫
テキスト:加藤精一訳『空海「性霊集」抄』(角川ソフィア文庫)、司馬遼太郎『空海の風景<上下>』(中公文庫)
コース:JR「京都」駅=<JRバス>=槙ノ尾バス停―西明寺指月橋―聖天堂―本堂―鐘楼―アショカ王石柱―灌頂橋―<清滝川沿いの道>―神護寺(拝観自由・解散)
<報告:田原由美子>