関西文学散歩 カルチャーウォーキング 詳細

ホーム > 関西文学散歩 カルチャーウォーキング > 報告 > 詳細
2020.03.02 【報告】
第554回
~水上勉「一休を歩く」を歩く~
2020年2月9日(日)終了 <中村文子記>
地蔵院
一休禅師母子像の前にて

天気:曇時々雪 参加人数:40名

 温暖化の今冬、熊もゆるりと冬眠をしていられないらしいこの冬。地球は怒っているのかしら、異常な冬だ、と思いきや、下り立った上桂駅(初めて下りた駅でした)では、雪が散らついていました。

 今日のテーマは「一休」。彼は後小松天皇の側室の子として生まれますが、第100代目の後小松天皇は北朝の後円融天皇の第一皇子であり、この当時、北朝と南朝、足利幕府との関係には大きな権力拮抗が生じていました。室町第三代将軍・足利義満も征夷大将軍から武家で初めて大政大臣となり、朝廷に対する幕府の優位も歴然とした時代で、南朝方は財政的にも破綻し北朝に吸収されたに等しい時代でもありました。一休の母は、南朝方の出であったといわれ、竹の寺ともいわれる地蔵院辺りに幽居した母は、そこで「千菊丸」を産み、彼は四条大宮近くにあったという安国寺で「周建」と名を改めました。一休6歳の時の事で、彼はこれを機に禅僧の道に入ります。

 そして、16歳の時には、『法を説き禅を説き姓名を挙ぐ、人を辱しむるの一句聴いて声を呑む。問答もし起倒を識らずんば、修羅の勝負、無明を長ぜん』という漢詩をものにします。訳意は、「やれ、わしは藤原の出だの、お公家出だのと出自を誇っている姿は浅ましい。いったん頭を剃って釈迦の弟子となったからには求法の道があるばかりで、在俗時代の位階や尊卑はありはしない、全て捨てたはず、それなのにどうしてそんなに家柄を自慢し合うのか、仏法の真実を識らず俗人と同じ事をいっているのでは、いつまで経っても無明の闇から抜けることは出来まい」ということでしょう。

 この詩に私は、15、6才の少年が胸に秘めている孤愁を感じます。また、竹林はお釈迦様の時代から聖舎の地、考える人の住む地といわれているように、竹の寺・地蔵院の杉苔にも、飾らぬ清々しさを感じました。

 さて一休は、松尾大社近くの西金寺(現在、廃寺)で純粋禅を貫く謙翁宗為の弟子となり、名を「周建」から「宗純」に改めますが、その師が逝き、大切な心の柱を失くし、失意のうちに清水寺から近江石山寺に向かいました。そこでも追善供養に護摩を焚き、石山寺の僧たちを感動させる誦経7日間を済ませた後、「宗純」は無常観からか、心柱を失った喪失感からか、瀬田川に入水未遂をしたという説もあるそうです。

 

 ≪全文は上記PDFファイルをご覧ください≫

 

テキスト:水上勉『一休を歩く』(集英社文庫)・水上勉『一休』(中公文庫)

コース:阪急「上桂」駅─地蔵院(京都市登録有形文化財の方丈・京都市登録名勝の庭園など)―西芳寺川―月読神社─松尾大社(庭園・神像館の拝観、お酒の資料館見学)―阪急嵐山線「松尾」駅

<報告:中村文子>

織田作之助賞
織田作之助青春賞
文學回廊
入会のご案内はこちら
PDFの閲覧はAdobe Readerを
ダウンロード(無償)してください。
ページの先頭へ