天気:曇 参加人数:31名
前日の台風襲来で、JRの電車、とくに「万葉まほろば線」は動いているか、大雨にならないかと気が落ち着かないが、ともかく集合駅へと急いだ。その駅名は「櫟本」、「いちのもと」と読むそうだ。朝のあいさつで開口一番「集合案内の駅名にフリ仮名をつけていなくてすみませんでした」と担当者がお詫びしている。何人かの人が、どう読むのかと電車に乗る時に迷ったらしい。「櫟(いちい)」は「一位」とも書く樹木の名前なのだそうである。空は小雨である。今日は一日覚悟しなきゃいけないな、と思っていた
さて今回は、武烈天皇が小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさぎのみこと)と名乗っていた時代、恋敵の平群鮪(へぐりのしび)を誅殺した事件の現場を「山の辺の道」に訪ねるとあって、どんなところだろうと興味津々である。武烈天皇といえば、『日本書紀』に、妊婦の腹を裂いてその胎児を見たとか、女を裸にして平板の上に座らせ、馬をけしかけて交尾をさせたなど、それはそれは悪逆非道な天皇として描かれ、「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」と記された人物である。しかし、これら記述は『古事記』にはなく、『日本書紀』には王朝交替(次代は継体天皇)による歴史観が働いているのではないかという説があり、謎に包まれている。
ともかく『日本書紀』に、物部麁鹿火(あらかい)の娘、影媛をめぐる歌垣での出来事が記され、影媛は物部家随一の巫女として知られていた。皇太子が仲介の者を物部家に遣ったところ、彼女は、すでに真鳥の息子鮪(しび)と情を交わしており、恋に破れた小泊瀬稚鷦鷯尊が怒り心頭に達し、大伴金村に鮪を乃楽山(ならやま)で殺させ、合わせて鮪の父である平群真鳥も討伐させたというものである。この事件を聞いた影媛は鮪を追いかけ、「あをによし 乃楽のはざまに 鹿(シシ)じもの 水漬く辺こもり水そそぐ 鮪の若子を 漁り出な猪の子」とその亡骸にすがったという。
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テキスト:高尾長良『影媛(かげひめ)』(新潮社)、『日本書紀』(宇治谷孟・現代語訳//講談社学術文庫)
コース:JR櫟本駅―歌塚─和邇下神社―ウワナリ塚古墳―神宮外苑公園(昼食とお話)―石上神宮―布留の高橋(影媛ゆかり)―天理参考館―JR・近鉄「天理」駅
<報告:田淵浩一>